しんぶんで見つけた!こんな記事
2005年3月19日 読書河合隼雄 臨床心理学者/文化庁長官
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何の関係もない赤ちゃんを殺したり、
学校に乱入して殺人を犯したり、
小学生の殺人があったり、
どうしてそんなことができるのか不可解に思うような
殺人事件が起こる。
人間の心と心のつながりが「切れて」しまっている。
こんな特別な場合を考えなくとも、
普通一般の人たちの間の心のつながりも
ずいぶん薄くなっていないだろうか。
団塊の世代の定年を迎えるような人たちの間で
同窓会をするのが、
最近急に増えているという。
職場でも親類縁者でも、ふと気がつくと
あまり心のつながりがなく、定年を迎えてさびしくなって、
昔の同窓生と集って、
「つながり」を回復したくなるのだ。
生活が便利で快適になり、
効率的に功利的に生きているうちはいいのだが、
老いや死が近づいてきて急に孤独を感じるのだ。
なにも高齢者だけではない。
若者たちもケータイを必死に操作して、
友だちとのつながりを保とうとする。
学生相談では、
「友だちができない」「どうしたら友だちができるのか」
という相談が多いとのこと。
どうしてこうなったのだろう。
日本人は昔から、
家族でも地域の人でも心のつながりがあった。
しかし、それは観点をかえると「しがらみ」になってくるのだ。
あれを思いこれを思いしているうちに、自分のやりたいことは
すべて我慢してしまう。
これでは駄目だ、
欧米の人たちのまねをして、もっと「個人」を大切にと思って
「しがらみ」を切っているうちに、
大切なつながりまで切ってしまったというのが
実情ではないだろうか。
それに、
科学技術の発達によって、人間は
上手にものごとを「操作する」と万事うまくゆく
と思い過ぎて、
人間はそれほど「操作」できるものではないことを
忘れたのではないだろうか。
操作とか対策とかマニュアルとか言っている間に、
心のつながりが切れてゆくのである。
だからと言って、昔の日本式「しがらみ」はもう嫌である。
そこで、新しい人間と人間の心の結びつきということで
「友情」ということに感心が高まってきたようである。
親子、夫婦、上司と部下、などなどの
人間関係を深く考えていくと、そこに「友情」が働いている。
友情には、利害や損得と関係なく
自分をまるごと受け入れてくれるという安心感がある。
日本人が今、心のつながりの回復を求める上で、
友情をもう一度考え直してみてはどうか。
そんな意図で最近、私は『大人の友情』という本を書いた。
読んだ人たちから、なかなか面白い反響があった。
高齢者の夫婦からは
「夫婦で読んだが、
われわれは『戦友』として生きているのだと思った」
というのがあった。
同窓会に行って、たまたま会った二人が
友好を温めているうちに「男女関係」になった。
このままでは破滅しかねないと思っていたが、
男女の間の友情の微妙さに思い至ったという例もある。
ほかにも
「一心同体と思っていた友人に裏切られ、
一生恨みに思っていたが、
それには意味があったのだと考え直した」
というのや、
「友人の出世にイライラする自分を、
距離を置いてみられるようになった」
など。
これらを聞いていると、
日本式べたべたの関係か赤の他人か、という両極端ではなく、
その中間に「友情」という豊かで微妙な世界があることに、
日本人も気づきはじめたのかと思う。
経済の高度成長をなし遂げてきた日本人が、
より幸福になるためには「心のつながりの回復」が必要である。
そのためには
お金で買えないし数値で表すこともできない
「友情」ということの価値を
しっかりと認識することが大切ではなかろうか。
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朝日新聞朝刊
2005年3月19日 35面(オピニオン)より
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何の関係もない赤ちゃんを殺したり、
学校に乱入して殺人を犯したり、
小学生の殺人があったり、
どうしてそんなことができるのか不可解に思うような
殺人事件が起こる。
人間の心と心のつながりが「切れて」しまっている。
こんな特別な場合を考えなくとも、
普通一般の人たちの間の心のつながりも
ずいぶん薄くなっていないだろうか。
団塊の世代の定年を迎えるような人たちの間で
同窓会をするのが、
最近急に増えているという。
職場でも親類縁者でも、ふと気がつくと
あまり心のつながりがなく、定年を迎えてさびしくなって、
昔の同窓生と集って、
「つながり」を回復したくなるのだ。
生活が便利で快適になり、
効率的に功利的に生きているうちはいいのだが、
老いや死が近づいてきて急に孤独を感じるのだ。
なにも高齢者だけではない。
若者たちもケータイを必死に操作して、
友だちとのつながりを保とうとする。
学生相談では、
「友だちができない」「どうしたら友だちができるのか」
という相談が多いとのこと。
どうしてこうなったのだろう。
日本人は昔から、
家族でも地域の人でも心のつながりがあった。
しかし、それは観点をかえると「しがらみ」になってくるのだ。
あれを思いこれを思いしているうちに、自分のやりたいことは
すべて我慢してしまう。
これでは駄目だ、
欧米の人たちのまねをして、もっと「個人」を大切にと思って
「しがらみ」を切っているうちに、
大切なつながりまで切ってしまったというのが
実情ではないだろうか。
それに、
科学技術の発達によって、人間は
上手にものごとを「操作する」と万事うまくゆく
と思い過ぎて、
人間はそれほど「操作」できるものではないことを
忘れたのではないだろうか。
操作とか対策とかマニュアルとか言っている間に、
心のつながりが切れてゆくのである。
だからと言って、昔の日本式「しがらみ」はもう嫌である。
そこで、新しい人間と人間の心の結びつきということで
「友情」ということに感心が高まってきたようである。
親子、夫婦、上司と部下、などなどの
人間関係を深く考えていくと、そこに「友情」が働いている。
友情には、利害や損得と関係なく
自分をまるごと受け入れてくれるという安心感がある。
日本人が今、心のつながりの回復を求める上で、
友情をもう一度考え直してみてはどうか。
そんな意図で最近、私は『大人の友情』という本を書いた。
読んだ人たちから、なかなか面白い反響があった。
高齢者の夫婦からは
「夫婦で読んだが、
われわれは『戦友』として生きているのだと思った」
というのがあった。
同窓会に行って、たまたま会った二人が
友好を温めているうちに「男女関係」になった。
このままでは破滅しかねないと思っていたが、
男女の間の友情の微妙さに思い至ったという例もある。
ほかにも
「一心同体と思っていた友人に裏切られ、
一生恨みに思っていたが、
それには意味があったのだと考え直した」
というのや、
「友人の出世にイライラする自分を、
距離を置いてみられるようになった」
など。
これらを聞いていると、
日本式べたべたの関係か赤の他人か、という両極端ではなく、
その中間に「友情」という豊かで微妙な世界があることに、
日本人も気づきはじめたのかと思う。
経済の高度成長をなし遂げてきた日本人が、
より幸福になるためには「心のつながりの回復」が必要である。
そのためには
お金で買えないし数値で表すこともできない
「友情」ということの価値を
しっかりと認識することが大切ではなかろうか。
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朝日新聞朝刊
2005年3月19日 35面(オピニオン)より
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